敵に塩を贈る

 まだ5月だというのに、もう梅雨の気配である。一昨日25日、東京・練馬で今季初めて30度の「真夏日」となった。
 そして、間もなく6月だ。梅雨時もさることながら、私は6月という月が嫌いである。近年、益々それが強くなってきており、もはやそれは「憎悪」の域に達している。
 梅雨時の蒸し暑さを好む人は少ないであろう。例年、梅雨入りは全国的に6月なのだ。そして、この頃から熱中症という言葉も聞かれ始める。近年は「記録が比較できる範囲で初めて~」などという現象が頻発し、テレビでは気象予報士なる新手の“タレント”が溢れている。
 今年は、新型コロナのワクチン騒動の大騒ぎが加わり、何としてもオリンピックを強行しないと命脈を保つことができない政権の断末魔のようなあがきが日に日にあからさまになり、鬱陶しさに拍車がかかっているのだ。
 イギリスではまだワクチンが開発中の段階で、ワクチン接種の段取りに取りかかっていた。1年以上も前のことである。我が国では、万事目の前になって初めて大騒ぎを始めている。分かり切っていることが準備できない、この耐えがたい為政者の無能。異常に早く梅雨入りしたエリアが現れるのも無理はない。俗世のどうしようもない気分の悪さに、お天道様が気候を合わせたとしか思えないのだ。
 しかし、私の6月嫌いは何も愚かなワクチン騒ぎのせいではなく、恥ずかしながらもっと単純な理由によるものなのだ。
 6月は私の誕生月である。そして、この月は唯一祝日という休みが1日もない月なのだ。この二つの理由で、私は6月1日になった途端に不機嫌になり、周りのスタッフが昨日までとは様子が違う私に気づいて、「そっか、6月か・・」とため息をつくことになる。
 私は高齢者である。威張っているわけではない。この歳になって誕生日が嬉しいなどということがあるはずがないではないか。人生という尺が、また少し残り少なくなるのだ。もっと分かり易く表現すれば、また一歩墓場に近づいたということなのだ。
 私だって、もっともっと長生きしたい。俗世に未練もある。しかし、人生の尺というものは大体決まっていて、それについてはお天道様の裁量に抗うことはできないのだ。それを必死に受け容れようとしている時、「おめでとうございま~す!」などと尻上がりのトーンで軽々しく言われたらどんな気分になるか。こいつっ!俺の葬式を楽しみにしている、としか思えないではないか。
 この不愉快さについては、今年のそれは例年の比ではないのだ。
 先日、日頃何も行政サービスというものを行わない市役所から封書が届いた。また何か納付し忘れているかと思って封を切って、愕然とした。
 訳の分からぬ何枚もの紙の1枚目の紙にゴシックで書かれたタイトルが、目に飛び込んできたのだが。。。
 「令和3年6月に75歳を迎えられる方へ」とある。
 そして、何枚もの紙のあちこちに「後期高齢者」という文字が、これでもか、これでもかとしつこくちりばめられているのだ。
 要するに、今年の誕生日から私が「後期高齢者」になるという通告であり、同時に、今後はこの保険証を使えと、紙の一部を点線に沿って切り取って使う別種の貧相な保険証を送ってきたのである。
 おもちゃみたいな紙の保険証にも腹は立つが、まぁこれで有効ならそれは我慢しよう。
 腹が立つのは「後期高齢者」という言葉の連発である。後期というからには、そのあとはない。つまり、人生の尺がもう尽きようとしていることを自治体がダメ押ししてきたのだ。
 私の人生の尺がもう一杯になろうとしていることは事実である。このことは、厳然たる事実である。日頃は行政サービスなど何もやっていないようにみえる我が市役所も、これに関しては正確であって、ミスもなく誕生日前に通告してきた。今の官僚や地方公務員に人の情を期待する方が間違っているかも知れないが、情味もなく正確だから余計に腹が立つのだ。
 こうなるともう八つ当たりになるが、逆上しようが、八つ当たりしようが、季節は無情に移ろい、6月某日私は「後期高齢者」となって墓場に向かって更に加速する日々を送ることになるのだ。
 梅雨時が憂鬱なのは、雨と湿気のせいだけでなく誕生月と重なることの方が原因としては大きいのである。
 唯一つ、この時期ならではの心が妙に落ち着く思いがある。
 いつもスタッフにもひとしきり怒り狂った後、梅干しのことを思うと、少年時代に雨に濡れながら我が家の梅の収穫を手伝った光景が浮かんできて、それを以て一連の怒りが収まるのである。
 田舎では、味噌、醤油、沢庵に始まり何でも自前でつくるものだが、我が家では必要な塩分を供給してくれる梅干しも自前でつくっていた。梅の木を数十本育てていて、梅雨時に実った梅を採ることから始まり、それを梅干しにするまでの行程の殆どは老人と子供の仕事でもあった。梅雨と祖父と夏の終わりの梅の天日干し・・・これらは梅干しという姿で私の内で優しく連なっているのである。
 梅干しは、戦国期に握り飯と共に兵糧の一つとして普及したとされている。確かに、塩分は重要であり、特に籠城戦のような長期戦ともなれば戦の勝ち負けに、即ち、生死に直結する養分となるのだ。
 夏でも冷蔵庫は勿論、扇風機すらなかった、江戸期と殆ど変わらぬ生活を送っていた私の少年時代、梅干しは白米だけの弁当が腐ることを防ぎ、米と身の回りのどこにでもある水とおやつはせいぜいサツマイモという私の生活そのものを支えてくれたのである。

 戦国の雄;上杉謙信が、敵である武田信玄に塩を送ったという美談を聞いたのは、確か中学の歴史の時間であったような気がする。いや、それ以前の小学生時代に「カバヤ文庫」で読んだような記憶もある。
 上杉謙信といえば、その実像とはかなり異なって「義」を重んじた武将としてそのイメージは既に定まっている。何年か前の大河ドラマで上杉の重臣直江兼継が脚光を浴び、上杉といえば「義」というイメージがお茶の間にまで蔓延したように見受けられるが、上杉一族が義という徳目を軽んじたとはいわないが、他の戦国大名家と上杉一族がまるで異質であった訳ではない。直江兼継は、佐渡も侵略したし、その部隊に「乱取り」が全くなかったかといえば、それはあり得ない。
 ひと言でいえば、上杉謙信亡き後、上杉景勝と直江兼継とは、謙信が切り拓き築いた、勝者に相応しい身代を、一代であっという間に食い潰してしまったに過ぎない。歴史の表面をなぞれば、ただそれだけのことである。
 「歴史の表面」というものは、事の実相とは異質のこともあれば、真逆の現象によって成り立っていることもあるが、否定しようのない冷徹な事実の羅列でもある。上杉景勝と直江兼継の生涯とは、結局のところ上杉の身代を食い潰しただけであった。二人の歴史を語る時は、まずこの事実が基本となる。その上に立ってどういうドラマを創作するかは作家の勝手であるが、それは既に歴史ではない。大河ドラマ「愛の兜」とはそういう困った歴史ドラマであった。
 そもそも上杉について「義」ということが殊更強調されるようになったのは、やはり上杉謙信の存在に拠るところが大きい。この、織田信長、武田信玄、北条氏康らをさえ畏怖させた傑出した戦国大名については、一章、二章で語り尽くせるものではないが、要請があれば出兵し、終われば占領せずに越後へ引き揚げた稀代の戦国武将は、謎は多いが非常にカリスマ性に富んだ人物であった。彼は、生涯七十度に亘る合戦で敗れたのは二度だけとされるが、攻城戦では成功しないケースも多々あり、どちらかといえば野戦に強かった。攻城戦の失敗を敗戦にカウントすると勝率はもう少し悪くなるが、謙信の兵は白兵戦に強く、戦術よりもこのことが野戦に強い最大の要因であった。但し、彼の合戦とは越後の百姓のための「乱取り」を目的としたものが多く、奪った敵国の百姓を戦争奴隷として売りさばくことが多かったことと、その相場が九州の島津などと比べると極端に安かったことを付記しておきたい。
 謙信の血液型がAB型であったことが、昭和三十年代に判明しており、そうだとすればこれは日本人にはもっとも少ない血液型であり(現在日本人の約8%)、かなり理知的、感性的であったものと思われる。真言宗に深く帰依したこと、「生涯不犯」(妻帯禁制)を貫いたことも彼のカリスマ性に寄与したものと考えられる。
 余談ながら、上杉謙信には「女性説」が存在する。これは、古くから存在する説であるが、私は与しない。ジンギスカン=源義経説と同じにはしないが、女性説の論拠はいずれも「女性であってもおかしくない」という、能動性に欠けるもので、「女性でなければおかしい」という能動的論拠が薄弱である。
 この上杉謙信の生涯七十度といわれる戦の中で、一般にもっとも有名なものがご存じ「川中島の合戦」であろう。この戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)に至るまで五次に亘って繰り広げられたが、決着はつかなかった。上杉謙信が敵である武田信玄に貴重な塩を贈ったという、所謂「義塩」の話は、この間にあったエピソードとして語り継がれている。
 先に、身も蓋もないことを言うが、謙信が信玄に塩を贈ったという事実は存在しない。
 古来、我が国には各地に塩を内陸へ運ぶ「塩の道」があった。このことは、民族学者;宮本常一氏の『塩の道』(講談社学術文庫など)にも詳しい。川中島の合戦の舞台となった信州についていえば、日本海側から入る塩を「北塩」(下塩)、太平洋側から入る塩を「南塩」(上塩)と呼ぶ。「北塩」は、富山・糸魚川・直江津・新潟から運ばれ、「南塩」は、岩淵・吉田・名古屋、そして江戸からも入ってきた。「北塩」を運ぶ道と「南塩」を運ぶ道のぶつかる所が「塩尻」である。つまり、塩尻という地名は信州だけでも何箇所か存在する。
 現在の塩尻峠は、中央分水嶺と呼ばれる峠の一つであり、岡谷市と塩尻市の境界に在る。この峠を堺にして、岡谷側に降った雨は天竜川を経て太平洋へ流れ、塩尻側に降った雨は千曲川へ合流して日本海へ流れ込む。塩尻峠とは、そういう劇的な峠でもある。
 今日「塩の道」としてもっとも有名なものは、千国街道であろう。この街道は、糸魚川から松本へ至る「北塩の道」である。今は、国道147号線や148号線が走っている筈であり、千国街道とは、旧道の名称である。
 この道は、代表的な「北塩の道」の一つであり、糸魚川で作られた塩や馴れ鮨が運ばれた。運んだのは、牛と歩荷(ぼっか)であり、馬は決して主力ではなかった。中世から近世にかけての我が国の物流を担ったのが牛であったことは重要な事実である。馬を使わなかったということではないが、主力は牛であった。
 主たる理由は、牛は道の草を食べてくれるのだ。冬場を除けば、牛の餌は道の草で足りるのだ。更に、牛は馬と違って野宿ができる上、馬より長距離の運搬に耐えられる。加えて、軍事との関係もあるが、馬は領主や藩の管理が牛より厳しかった。飼っている頭数を届け出なければならないのが普通である。尤も、大概届け出た頭数と実際飼っている頭数は大きく異なっていて、そうでないと馬による物流は成立しなかったのである。このようにして塩を運んだ牛は、信州や飛騨、更には美濃に至るまでのエリアでは佐渡牛であった。佐渡の牛が新潟へ運ばれ、そこから中部山岳地帯へ入って「陸船」(おかぶね)と呼ばれて塩などを運んだのである。
 更に余談ながら、庶民の生活史とは面白いもので、表向きの歴史としては記録されていないことも多い。この点に民俗学の存在意義もあると痛感させられる。
 例えば、南部は鉄の産地であり南部牛の産地でもある。南部の人は南部牛に鉄を背負わせて関東へ持ってくる。埼玉の川口近辺で鋳物が盛んになったのは、その名残りである。鉄を売った南部人は、一緒に牛も売ってしまってお金だけを持って帰ったのである。馬なら、こうはいかなかったであろう。
 日本の主な牛の産地は、殆ど西日本であり、西日本の牛が東日本で飼われるようになったのは戦後のことである。戦前、南部牛は、北上から下北に至る地域を中心にしながらも、関東から愛知県にまで分布していた。それは、このような南部鉄の流通と関係があるのだ。こういう牛が通る道は、東海道や中仙道といったメジャーな街道ではない。そこから脇へ逸れた、道草の豊富な細道である。その細道が、庶民にとって大切な物流の道であった。
 さて、上杉謙信である。
 駿府の今川と相模の北条が、「南塩」を絶った。「塩どめ」である。効果としては、兵糧攻めのようなものである。記録によれば、この時謙信は、
 『争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米塩に非ず』
と言ったという。なかなかカッコいい。そして、甲州・信州の民百姓に「北塩」を自由に取りに来ていいように取り計らったという。これが「敵に塩を贈る」=「義塩」の話のもとになっているようだが、これも実は疑わしい。
 既に述べたように、「北塩」はもともと千国街道を運ばれて松本まで来ている。上杉謙信が今川や北条と同じように「塩どめ」を行わない限り、信州・甲州の民百姓は致命的な事態には陥らないのだ。今川・北条が「南塩」の「塩どめ」を行ったからといって上杉が「北塩」を「塩どめ」すべき軍事的な理由は特にない。研究者によれば、この時期のどの記録にも「北塩」の「塩どめ」を示す記録はないそうだ。
 要するに、「南塩」が止められたのに対して、「北塩」は止められなかった、今川・北条は姑息なことをやるねぇ、上杉はそういうことをやらないねぇ、となって、上杉は敵失でポイントを稼いだというところではなかったか。それが時と共に膨れ上がって「義塩」の話に発展したのではないか。
 人間は、卑怯な手を使わない方がいい。後々にせよ、このように敵を利することになる。積極的に善行を行うか、悪行を慎むか、どちらかなのだ。この「義塩」の美談は、悪行を慎むだけで、善行を施したように褒め称えられることもあるという教えである。
 蛇足ながら、物資を政治的に流通しないようにすることを「津留め」というが、天保の大飢饉の時、困窮する大坂に対して米が余っているのに「津留め」を行ったのが、日頃大坂との米商いで利益を得ていた土佐藩と土佐人である。土佐は、この飢饉の影響を全く受けていなかった。これに怒って大坂町奉行組与力;大塩平八郎が、実質息子(養子)と二人だけで反乱を起こしたのである(大塩平八郎の乱)。
 因みに、大塩家とは「塩どめ」を行った今川氏の末流である。平八郎は、先祖の「塩どめ」を思って汚名返上を期して立ち上がったのか。まさかねぇ。。。
 このような史実を思えば、上杉には多少の「義」が存在したといってもいいかも知れない。いや、土佐人に「義」というものがなさ過ぎただけというべきか。
 貧乏の象徴のような梅干し、延いては塩というものにも壮大な人の営みが詰まっているのである。

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