カブールの醜態

 アフガニスタン・カブールの陥落は、私にサイゴン陥落を思い起こさせ、友グエン・ノック・タッチとの別れを蘇らせた。
 あれから半世紀余り、カブール陥落に際して菅政権と出先の大使館員のみせた醜態は、私たち日本人がここまで劣化していたかを改めて世界に晒すものであった。
 新型コロナ対策のあらゆる局面で決断ができずに万事後手に回って、責任を追及されることを怖れて大きな決断は一切できずに逆に人流を拡大させてきた菅政権の政治家と官僚たちは、このことについて責任を追及されて然るべきであるが、我が国のメディアは驚くべき寛容さで問題の本質どころか正確な事実さえあまり報道しない。
 菅氏は、コロナ関連のみならず数々の怠慢、失策等々の責任を全くとらずに退場しようとしており、こういう時、近年の有権者は逆に「お疲れ様」などといって好意的な評価さえ下すのである。

 アフガニスタン第二の都市・カンダハルが陥落したのは8月13日のことであった。この時、外務省幹部は「2~3日で事態が急転することはない」とメディアにいい切っていた。もう、この時点でアウトである。
 現地人スタッフを含む関係者の救出をどうするか、直接の担当責任者茂木外務大臣は、8月15日、当初スケジュール通り中東歴訪へ出発、カブールはまさにその日陥落した。
 日本大使館は即日閉鎖。12名の大使館員は空港から米軍機で脱出するはずだったが、空港内の混乱で米軍機の発着所にたどり着けず、空港内ロビーで2泊を過ごしたものの、8月17日、英軍機でカタールへ向けて脱出した。現地人スタッフとの約束を反故にし、その家族を含めれば約500名の日本関係者を放置して、即ち、結果として彼らを死地に陥れて自らの無事のみを考え、なりふり構わず英軍を頼ったのである。
 実は、現地人スタッフは8月上旬から退避計画を作るように進言していたという。それに対する大使館員の回答は、
 「他国が退避アクションをとれば日本も続くから心配しなくていい」
という、驚くべきものであったと伝えられる。
 万事、他国に追随、いつでも米軍が助けてくれる・・・戦後75年間に培われた恥ずべき属国根性そのものとしかいえない。自分たちの行動すら、独立して自ら判断して決定することができない。こういう連中を間違っても外交官と呼ぶことはできない。
 では、彼らが急遽なりふり構わず頼ったイギリスは、今回の事態にどう対応したか。

 イギリスは、4月に既に自国民に退避勧告を出していた。そして、8月、タリバンの侵攻スピードが速まると12日に追加部隊の派遣を決定し、大使館を閉鎖、大使館員は大使以下空港近くのホテルで退避作戦を指揮した。結果的に、自国民約5,000人、現地スタッフなど約1万人を無事退避させている。それでもジョンソン首相は、今回の作戦を「第一段階」であると公言し、9月以降も救出作戦を継続する構えである。
 フランスも5月から退避作戦を本格化させていた。カブール陥落の8月15日までに623人のアフガニスタン人及びその家族をフランス本国へ退避させている。最終的には、自国民142人、現地スタッフら約2,700人を無事救出している。
 ドイツは、空軍輸送機3機を派遣し、ウズベキスタンを拠点にして自国民約550名、現地スタッフら45カ国の市民約5,500名を救出した。
 アジアでは、インドネシアが空軍機1機を派遣、自国民26名、現地人スタッフ7名を救出、フィリピンは、本国政府が各国の軍用機利用を交渉、調整し、自国民を含む関係者200名弱を退避させた。
 日本は、自国民1名、現地人関係者14名をパキスタンに退避させただけである。約500名の関係者を見捨てる結果となった。それしかできなかったのである。
 日本には「自衛隊法84条」の問題が、常につきまとう。そのことを理解した上でも、無血開城という相対的には「恵まれた」紛争地からでさえ、我が国は自国民すら満足に救出できなかったことを国民自身が肝に銘じておくべきだろう。

 日本以外の普通の国にとって、今回の撤収・救出は軍事行動の一環である。そして、救出部隊は、いってみれば「殿軍」なのだ。
 「殿(しんがり)」とは、後退する部隊の最後尾を担当する部隊を指す軍事用語である。全軍が敗走する中で敵の追撃を阻止し、本隊を無事に逃すことが任務であり、自らは討死を覚悟するのが普通である。
 元亀元(1570)年、「金ケ崎の戦い」において織田信長は浅井長政の離反によって越前・北近江の敵中に孤立、必死に戦場からの脱出を図った。この時、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が池田勝正と共に殿を務め、何とか信長を脱出させ、自らは命からがらようやく戦場を脱出したことがある。この一件が藤吉郎の評価を一変させ、織田家の重臣としての地位を築くきっかけになったことは、よく知られる史実である。
 「関ケ原の合戦」においても、壮絶というには余りにも壮烈な殿の例がある。
 「関ヶ原の合戦」が、東軍徳川家康の勝利に終わり、長州・毛利輝元が総大将を務めた西軍が惨敗したことは、誰でも知っている史実である。小早川秀秋の裏切りについては諸説があるが、頼みの毛利軍が動かず、西軍が総崩れとなり、諸将が次々と敗走する中、東軍に包囲されるように取り残された島津義弘率いる薩摩・島津軍は、歴史に名高い敵中に突っ込む中央突破の退却戦を試みた。これが有名な「島津の退き口」である。
 この戦法が、「捨て奸(がまり)」といわれる島津軍独特の退却戦法を伴うことになった。本隊を無事に退却させるために、殿軍の中から少人数を留まらせ、追ってくる敵軍を一時的にでも食い止めるため、死ぬまで戦わせる。この一隊が全滅すると、次の一隊が、また敵の足止めを図る。この足止め隊は、本体を逃すための置き捨て兵であって生き残る可能性はゼロであるといっていい。つまり、トカゲのしっぽ切り戦法ともいわれる所以である。
 この時の島津軍は、「捨て奸」として銃を持った兵を退却路に点々と胡坐をかいて座らせた。この兵たちが追手の指揮官クラスを狙撃した後、槍を衝き立て突撃する。全滅したら、次の「捨て奸」を退路に置く。この繰り返しなのだ。
 退却する島津軍を執拗に追撃したのは、松平忠吉隊、井伊直政隊、本多忠勝隊であるが、島津軍の「捨て奸」によって本多忠勝が馬を撃たれて落馬し、井伊直政、松平忠吉は重傷を負った。井伊直政は、戦後、この時の傷がもとで死亡したとされる。
 島津軍は、「関ヶ原」に千五百の兵しか動員していない。これもこの戦に対する島津義弘の複雑な立ち位置を示すものと考えられるが、「島津の退き口」として語られる敵中突破を図った時には既に三百の兵しか残っていなかったという説も存在する。この説を採れば、この僅か三百が、大将島津義弘を落ち延びさせるために壮烈な「捨て奸」を敢行したのである。「妙円寺参り」の歌にも出てくる甥の島津豊久、家老長寿院盛淳らが義弘の身代わりになるなど多くの犠牲を出し、生きて薩摩へ帰り着いたのは八十余名に過ぎなかったという。
 島津義弘は薩摩へ帰り着くや否や、直ぐ薩摩・日向・大隅三州の国境を鎖し、防御城砦を築き、外城衆を動員して臨戦態勢を採ったのである。「関ヶ原」で見せつけられた「捨て奸」の壮絶さとまだ戦おうとする島津の凄みが、家康の戦後の島津征伐を思い留まらせた面もあるはずである。なお、外城衆とは、半農半士の在郷戦闘集団のことで、これも薩摩独特の存在である。

 「関ヶ原」の勝利を経て、徳川家康による江戸幕府が成立しても、薩摩自身がその幕藩体制に組み込まれても、江戸期二百七十年を通じて薩摩人はこの「関ヶ原」における「島津の退き口」において「捨て奸」戦法を採らざるを得なかった悔しさ、無念を忘れなかった。「忘れるな!」という薩摩人における合言葉を形にしたものが「妙円寺詣り」という延々と受け継がれてきた行事である。この怨念ともいうべき執念が、薩摩隼人の凄みであるともいえよう。そして、その行事は、令和の今も続いているのだ。
 私は、薩摩が幕府を倒すに至る心底の動機ともいうべき要因がここにあると考えている。小松帯刀の無意識かも知れない深い心理に、西郷の心の奥底に、大久保の心の深層にも、「関ヶ原」が脈々と生きていたのではないか。これが、薩摩を討幕に走らせた真因ではないか。即ち、辛酸をなめた「関ヶ原」の怨念が、討幕にせよ、雄藩連合の主役として徳川に取って代わろうと企図したにせよ、幕末の薩摩を走らせたエネルギーではなかったか。
 少なくとも、近代日本の構築を目指して、などという後付け史観を排して、真に明治維新というクーデターを検証しようとする時、「妙円寺詣り」という累年累代に亘って引き継がれている、もはや薩摩の風俗といってもいい催しを無視することはできないのである。

 カブールからの救出作戦において、日本大使館員に何もここまでの心意気を持てとはいわない。彼らは文人である。
 しかし、文人である彼らが真っ先に外国軍を頼って逃げ出していては、シビリアン・コントロールもクソもなくなるではないか。そこまでのことすらいわないまでも、いやしくも公人であろう。民間人を放り出しておいて我先に逃げ出すとは何事か。

 20年間の駐留を終えて撤退する米軍の殿部隊の最後の一人は、殿部隊を指揮する准将であった。尉官クラスでも佐官クラスでもなく、将官クラスの指揮官が最後の一兵として撤収機に乗り込んだのである。
 元はといえば、ソビエト(ロシア)の侵略が生んだタリバン。米軍駐留の是非は措くとして、殿軍の最後の一兵となった米軍准将は、少なくとも民間人も現地スタッフも放り出して任地を真っ先に逃げ出した日本人大使館員より遥かに真っ当な人間であると思うのは私だけではあるまい。

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