江戸の天災 令和の人災

 やることなすこと悉く後手に回り、整合性が全くなく、挙句の果てにヤクザまがいの違法な圧力を加えようとするコロナ禍における菅政権。銀行に圧力を加えさせて飲食店の酒提供を取り締まろうとして、権力を以て当の銀行に圧力をかけようと大真面目に考える。
 ひと言でいえば「スジ」が悪すぎる。これが重大な違法行為であることぐらい、素人でも分かることであり、菅氏や西村大臣が分からないはずがない。つまり、彼らは確信犯なのである。
 では、銀行に圧力をかけさせるべく、通達まで準備していた官僚たちはどうなのか。政治家以上に分かっていたはずである。しかし、今の彼らには政治家に意見具申する真っ当な神経を持ち合わせている者などいないとみえる。或いは、もう思考停止に陥っている。
 これも安倍政権の置き土産というべきであろうが、こういう連中を「公僕」とはいわない。下世話には「税金泥棒」という。
 極めつけはメディアであろう。今の記者たちは、とにかくひ弱い。真っ当な日本文さえ操れない菅氏や、日を追って顔つきの悪くなる西村大臣が目の前で暴論を展開していても、柔な質問はするが「追及」するということができないのだ。
 これは、知力と胆力の問題であろう。これまでに菅氏に対して「質問に答えていない」と食い下がったことがあるのは、知る限りではフリーの江川昭子氏くらいであろう。これでは、菅氏や大臣たちになめられて当然である。風体からしてヤクザっぽい麻生氏などは、もう記者たちを小馬鹿にしていて恫喝まがいの答弁しかしなくなっている。
 いつだったか、フランス人女性記者が質問に立ったことがあった。一瞬にして菅氏の顔に緊張が走り、彼は女性記者の方に身体を向けて質問を聞いた。実に正直な光景であった。
 日本にはメディアは存在するが、ジャーナリズムは存在しないといわれる。言い得て妙である。だとすれば、ジャーナリストが存在するはずがない。斯くして私たちは、否応なく歪んだ情報環境の中に身を置いているのである。
 かつて、東洋経済新報の石橋湛山(後の総理大臣)は、日本軍閥の祖とされる長州人・山縣有朋が他界した時、
    「死もまた社会奉仕である」
 と書き放った。
 平たくいえば、山縣は死んだ方が社会のためだと公然とその死を評価したのである。
 今の記者たちにここまでのことを求めるつもりはないが、せめて菅氏には質問に答えさせることだ。
 新型コロナとは、風邪の一部やインフルエンザと同種のコロナウイルスが惹き起こす感染症であり、自然災害、即ち、天災の一つだと思っていたが、この国では人災といってもいい要素が多いと感じるのは私だけではあるまい。
 古くより疫病は人びとを苦しめ、多くの場合、人びとは「祈り」を武器に戦うしかなかった。渇水には雨乞いをし、暴風にも飢饉にも神に祈ることで、危機を乗り切ってきたことと同じである。京都「祇園祭」が疫病退散を祈念して発生したイベントであったことは、広く知られるところである。
 この度の新型コロナという疫病については、安倍政権、菅政権などという、そもそも民の幸せなどあまり考えていないお上に頼るより、「あまびえ」のお守りの方が効いたのではないかとさえ思ってしまう。

 我が国の新型コロナが天災か人災かは措くとして、熱海の土石流には人災の部分も認められそうである。では、一昨年の広島豪雨の際の土石流はどうか。違法性はどこにもないが、そもそもあそこまで山を切り開いて宅地造成すれば、自然が怒るのは当然であろう。となれば、これも極めて人災に近い自然災害と位置づけていいかも知れない。
 近年の災害の多発状況をみていると、江戸末期の自然災害をどうしても思い起こしてしまう。種類と頻度が似ているのである。但し、江戸期の災害はどこまでも自然災害であって、人間の営みが関与したものではない。

 江戸期に特に多くなった災害は、火山の噴火、津波、火災、そして、大風、洪水である。これに地震を加えると、災害発生の状況がどこか平成・令和という時代に似ているように思えてならないのだ。
 例えば、平成29(2017)年以降どれほど水害が発生したか、この数カ月のことも含めて私たちの記憶にまだ新しいところであるが、それは「異常気象」という域を超えているのではないかと思われるほどである。
 また、2000(平成12)年以降に発生したM6・0以上の地震は、何と90回を超えているのだ。事ある毎に「風化させないでおこう」「語り継ごう」としきりにいうが、これだけ多いとそれも努力の要ることなのである。
 平成23(2011)年の3・11大地震と大津波は、2万人を超える犠牲者を出したことと原発事故が重なったこともあって、今後も永く記憶されるであろうが、これは八百年~千年に一度という例外的な大地震・大津波であったといわれている。しかし、原発事故だけは東京電力という企業の犯罪であり、これは区別して扱わなければならない。
 西暦2000年以前に遡ると、平成7(1995)年、阪神淡路大震災が発生した。M7・3、死者は6400人を超えた。
 私たちは、自然災害から逃れることはできない。そして、これまで自然科学は、地震を予知することに情熱とエネルギーを傾け、お金をかけてきたが、平成29年になって地震予知の専門家は遂にこの基本姿勢を放棄し、地震の予知は完全にはできないという大前提に立って、それに対する対応を研究するという風に、考え方を大転換したのである。
 今更、というべきであろう。西欧価値観を絶対視してきた明治維新以降のこの社会は、科学を過信してきたといっていいのではないか。日本列島に生きる私たちは、これまでの時代に同じような地震や津波、その他の自然災害を繰り返し、繰り返し経験してきたことを忘れてはいけないのだ。それは、未熟な科学が示すことより遥かに重い事実なのである。
 地震や津波を理解するには、確かに自然科学の研究成果は有用である。しかし、それのみを偏重してきたということはなかったか。「災害の歴史」というものに、目を注いできたであろうか。その意識が強くあったならば、例えば「歴史人口学」には及ばないとしても、「歴史災害学」といってもいい知見が成立し、災害対応に大きな役割を果たしたのではないかと思えるのである。このことは、新型コロナのような疫病についてもいえることなのだ。
 記録の多い江戸期の事例だけでも、私たちはどこまでその経験を継承しているだろうか。殆ど無知に近いといってもいいだろう。口先とは裏腹に、過去の経験に学ぼうという姿勢は皆無に近い。
 地震・津波・噴火に限っても、江戸期は多くの被災経験をもっている。以下は、その一部である。

 ◆仙台地震(元和2年1616) M7・0
 ◆武州大地震(慶安2年1649)M7・0
 ◆近江大地震(寛文2年1662)M7・6
 ◆陸中地震・津波(延宝5年1677)M8・0
 ◆房総沖地震・津波(同)    M8・0
 ◆日光地震(天和3年1683) M7・0
 ◆三河遠江地震(貞享3年1686)M7・0
 ◆元禄関東大震災(元禄16年1703) M7・9~8・2 死者10367、
  家屋全壊22424
 ◆宝永大地震・津波(宝永4年1707)M8・6 南海トラフプレート地震 死者5045、
  家屋全壊56304、流失19661
 ◆宝永富士山大噴火(同) 10日間続く
 ◆蝦夷大島津波(寛保元年1741)蝦夷大島噴火、津波によって松前で1500人溺死
 ◆越後高田大地震(寛延4年1751)M7・0~7・4
 ◆石垣島地震津波(明和8年1771)石垣島で死者8439
 ◆浅間山大噴火(天明3年1783)4月9日から丸三カ月噴火が続く、関東一円に降灰、
  火砕流が吾妻郡鎌原村直撃477人死亡、我妻山で山津波発生約2500人死亡、
  土砂で利根川洪水、前橋で約1500人死亡、噴煙が煙霧となってヨーロッパを覆う
 ◆青ヶ島噴火(天明5年1785) 死者140、八丈島へ全島避難、帰還が実現したのは
  40年後の文政8(1824)年
 ◆雲仙普賢岳噴火・津波(寛政3年1791)島原前山崩落、山は150メートル低くなり、
  海岸線が800メートル前進、津波が有明海を三往復(島原大変肥後迷惑)、津波による
  死者15135
 ◆三陸磐城地震・津波(寛政5年1793)M8・0~8・4 死者44、全壊流失1730
 ◆象潟地震(文化元年1804) M7・0 酒田で液状化・地割れ、井戸水噴出、死者
  300以上、全壊5000以上
 ◆近江地震(文政2年1819) M7・0~7・5 近江八幡・膳所で死者95
 ◆庄内沖地震津波(天保4年1833)M7・5 津波波高庄内8m、佐渡5m、
  隠岐2・6m、死者100名
 ◆善光寺地震(弘化4年1847)M7・4 浅い活断層地震、本尊開帳参詣者1029人
  死亡、被害は飯山藩・松代藩など広域にわたり死者総計8000以上
 ◆伊賀上野地震(嘉永7年1854)M7・0~7・5 日米和親条約締結直後、伊勢・近江
  中心に東海から北陸~四国まで被害、死者1308
 ◆安政東海南海地震(同五カ月後)M8.4 震源域紀伊水道~四国沖、駿河トラフ・南海
  トラフが連動した巨大プレート境界地震、関東~九州大津波、熊野・四国・豊後水道で
  10m超、伊豆下田でロシア艦ディアナ号被災、宝永大地震・津波の教訓が生かされた
  大地震
 ◆安政江戸地震(安政2年1855)M7・0~7・1 元禄大地震以来の「首都直下型
  地震」、下町の被害甚大、下町だけで倒壊1万4346、死者約1万人、吉原全焼、
  遊女・客約1000名死亡
 ◆八戸沖地震(安政3年1856)M7・5
 ◆芸予地震(安政4年1857)M7・0
 ◆飛越地震(安政5年1858)M7・0~7・1 跡津川活断層地震、死者302

 全くうんざりするほど凄まじい。繰り返すがこれは一部である。
 注目すべきことは、平成が終わり、新しいステージを迎えた今、私たちが懸念している型の地震や津波がすべてこの中に含まれているということである。東南海トラフの合体地震、首都直下型地震、大規模津波、活断層地震、地震後の火災や山崩れ、堰止湖の決壊による大洪水等々、私たちは既に経験しているのだ。それも、江戸期というごくごく近い過去に。
 長州近代政権は、江戸という時代の仕組み、出来事だけでなく価値観までを全否定し、土の中に埋めてしまった。災害の記録、記憶も埋められてしまったのである。
 私が、事あるごとに「江戸を掘り返さなければならない」といっているのは、災害対応についても、江戸の経験が生きると考えているからである。
 東日本大震災を受けて、津波を防ぐ大堤防の建造が進んだ。江戸期にも三陸は、何度も津波に襲われてきた。江戸の技術があれば、材料は異なっても大堤防は造れる。しかし、江戸人は造らなかった。
 どちらが正しいという問題ではない。その時代、時代で、どこまでを視野に入れて対策を講じるか、その社会的コンセンサスの問題ではないだろうか。
 大堤防を造れば、沿岸の海は死ぬ。生態系そのものが死滅する。しかし、堤防の高さ以下の波高の津波は防げるはずである。
 さて、私たちはどう対応するのがベターなのであろうか。いうまでもなく、この種の問題にベストは存在しないのだ。誰がリーダーシップをとって、これを考えるのか。
 いずれにしても、私たちは、災害に対する対応についても多くを先人の経験に学ぶことができるのだ。
 江戸期に発生した主な地震・津波を一覧していて、気になることが甦ってきた。
 徳川家康が征夷大将軍に任じられたのは慶長8(1603)年である。この、豊臣から徳川への政権交代期にも気になる大地震が発生しているのだ。
 天正20(1592)年、秀吉による朝鮮出兵が開始された。そして、文禄5(1596)年6月27日、和議の交渉を目的として明の使節が来日したのだが、その直後の閏7月9日、別府湾を震源とする豊後地震(M7・0)が発生している。津波によって別府村は水没、これによって別府村は、その後元の位置から西の方へ移転することになる。現在の湯の町別府は、西へ移転した地で成立、発展したものなのだ。
 この豊後地震の4日後閏7月13日の深夜、伏見地震(M7・5)が発生した。伏見は、この時点で我が国の首都といってもいい、政治の中心地であった。落成直前の伏見城が倒壊、方広寺の大仏も崩壊した。
 問題は、この地震が有馬・高槻構造線と呼ばれる活断層によって引き起こされた地震であったことなのだ。この活断層の南の延長線上に野島断層が走っている。この野島断層こそが、平成7(1995)年の阪神淡路大震災の起震断層となったのである。
 伏見と淡路は、即ち、有馬・高槻構造線と野島断層は、地震学の立場からみれば至近距離である。二つの地震の間隔は、399年。果たして、両者に何も関連はないと言い切れるのか。
 それをいえば、日本中の活断層はすべて繋がっているも同然といえるかも知れない。私はこういう視点で、歴史災害学と地震学の融合が成らないものかと考えてしまうのだ。
 また、家康の将軍二年目の慶長9(1604)年12月16日、東海・南海地震が発生している。駿河沖~紀伊水道沖を震源域とする大規模な津波地震であった。房総半島から九州南部に至るまでの沿岸が津波に襲われ、阿波鞆浦では、その高さが10丈(30m)にも達したという記録がある。浜名湖畔舞坂宿では100軒中80軒が流出した。
 この型の地震こそ、今私たちが恐れている代表的な大地震「東南海地震」ではないのか。
 「宝永大地震・津波」(宝永4(1707)年、M8・6)、「安政東海南海地震」(嘉永7(1854)年、M8・4)も、この型ではないだろうか。「宝永大地震」は、南海トラフ地震であるが、「安政東海南海地震」は、文字通り駿河トラフと南海トラフが連動した巨大プレート地震であった。
 慶長9年の「東海南海地震」から103年後に「宝永大地震」、250年後に「安政東海南海地震」が発生しているのである。
 この三つの巨大地震が無関係であるとは、到底思えない。現実に、「安政東海南海地震」の際、人びとが真っ先に思い出したのが、「宝永大地震」であったのだ。
 また、平成3(1991)年、人的被害を出す火砕流が発生した雲仙普賢岳は、江戸期に三度大きな噴火を起こしている。毎度、土石流を伴うなどのパターンは、変わらないと観察できるのだ。24名が犠牲になった30年前の火砕流災害について、「当時は火砕流なんて誰も知らなかった」と地元の人でさえ語っているが、それこそ私たちが江戸を抹殺している証左であるといえるのではないか。
 そして、残念ながら三陸沖の地震は、歴史という時間軸の上では絶え間がない。また必ず発生すると考えておくべきであろう。

 江東区の洲崎神社(元洲崎弁天社)をご存じであろうか。江戸期半ばまでは、ここまでが海であった。広重の浮世絵「深川洲崎十万坪」として知られるスポットであるが、その絵を見ても分かる通り、ここから先に人家はない。
 寛政3(1791)年9月、台風による高潮が襲来し、夥しい人家と人命が消滅した。幕府はいち早くこのエリアを買い上げ、「波除碑」(津波警告碑)だけを建立してこのエリアに居住することを禁止した。人命に勝るものはないという治世のコンセプトと自然には抗わないという価値観をもつ幕府の、災害対応は実に素早い。それは、富士山噴火、大飢饉など他の災害直後の対応をみても同様である。これについては、多少の書物も世に出ているので、菅氏も小池氏も多少は勉強した方がいい。
 今この地には、幕府の建立した「波除碑」の警告を無視するかのように数十万人もの人が生活している。確かなことは、いずれこの地が堤防の決壊や津波によって大水害に見舞われるということである。

 江戸期なら、新型コロナも熱海の土石流も自然災害である。そもそも、江戸期なら熱海の土石流で人命が失われるというような事態は発生しない。
 一方で令和の今、新型コロナは果たして純粋に自然災害=天災と言い切れるだろうか。

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