「お上」に逆らわないニッポン男児と銃口に立つ女の子たち

 コロナ禍はこの社会のウイークポイントを浮き彫りにしたといわれるが、全くその通りである。
 国政政治家の判断力、決断力の欠落、情報発信力の低劣さ、何よりも危機意識の無さ。もう目を覆い、耳を塞ぎたくなるような恥ずべき醜態を晒し続けている。こういうことがみっともないんだよ、といちいち示して教えないと、今の議員たちには解らないだろうが、それはよほど紙幅が余った時にでもやることであって、わざわざ整理して述べる価値もない。
 官僚もひどい。これはもう、安倍政権の置き土産として矯正不可能な存在であり、諦めた方がいい。地方自治体や日本医師会になると、何をかいわんやと怒りが沸々と湧いてくる。休業支援金や協力金をスケジュール通り支払うという初歩的な業務さえまっとうにできないことを棚に上げ、休業しろ、酒は出すななどとよくいえたものである。
 また、戦後長きに亘ってこの国の医療行政を歪めてきた巨大な圧力団体=日本医師会に、専門家づらして国民に説教を垂れる資格はない。公立病院の建設を妨害してきたのは彼らであり、その意味で一連の「医療ひっ迫」の真犯人はこの連中なのだ。
 極めつけは、テレビメディアとそれに寄生する「テレビ専門家」やコメンテーター、キャスターと称する輩であろう。
 「正直者がバカをみることがあってはなりません。私たち一人ひとりの自覚が~」
 結びの言葉は、各局各番組で申し合わせたように決まっている。
 綺麗ごとと変節。よく飽きもせずやっているものである。
 斯くして、緊急事態宣言を再延長してから多くの地点で人出は逆に増加した。東京都のモニタリング会議とやらでは相変わらず「リバウンドの危険性がある」などとコピペしたような台詞を毎週発しているが、何故人出が増えるか、都知事以下彼らには解らないとみえる。単純に、都民の意識が低くて困ったものだと思っているのだろうが、都民はもはや官邸も都知事も専門家も信じていないのだ。逆に、怒っている者が増えているのだ。
 信頼感を失った自治体や組織は、もはや指導力を発揮できないのである。

 時間があるのに、パンデミックを収束させるという強い意思を持たなかった菅政権は、ロックダウンが可能になるような立法措置を講じることも、早めにワクチン接種体制を整えることもしなかった。やればできたことをしなかったのである。
 そのために、今行われていることは、基本的には単なる「要請」、即ち「お願い」に過ぎない。お願いに過ぎない以上、嫌なら断ればいいのだ。
 このことは、言葉面以上に重要である。
 お願いであれば、嫌なら断ればいいという至極当然の理屈が通用しない点に、この社会の根深い後進性が潜んでいることにいい加減に気づくべきであろう。

 三つの象徴的なシーンがある。
 一つは、東京・神楽坂。まだ第3波の3月頃だったであろうか。
 ある飲食店が小池都知事の要請に従わず、通常通り営業していたところ、店頭にベタベタと貼り紙をされ、遂に閉店に追い込まれた。店主にしてみれば、何とかスタッフを解雇せず、店を生き延びさせたかっただけである。
 私が危機感をもったのは、その紙の文面である。
 「神楽坂の恥! 日本の恥! 国賊!! 出ていけ!!」
 そして、差出人を示す文末に、「正義の味方 より」とあったのだ。
 まるで戦前の「昭和維新」である。これを書いたオッサン(と断定して間違いない)は、己が大東亜戦争への道を切り開いた「昭和維新」運動の主役=メディアに煽られた大衆の代表的な一庶民のままであることを知らないのだ。そうなのだ、80年前のメンタリティのまま全く進歩していないことに気づいていないのである。明治維新以降の「お上」はこういう庶民を教育で育成し、歓迎してきたことは、歴史に明白である。
 このオッサンの行為は、明らかに犯罪である。警察は、何故これを放置したのか。
 何よりも恐ろしいのは、このオッサンが自らを「正義」と信じていることである。そして、この種の犯罪は神楽坂だけでなく、全国各地で頻発している。
 私は、神楽坂には知っている店が何軒かあるが、もう神楽坂に足を踏み入れる気はない。

 二つ目のシーンの舞台は、永田町である。
 広島県選出の前法務大臣河井氏に実刑判決が下されたのは当然として(被告は控訴)、その妻河井案里氏の選挙資金として自民党本部は1億5千万円という巨額の資金を案里氏に振り込んだ。誰がこの送金に関与したのか。
 この件につき、記者団が二階幹事長に質問をぶつけていた5月18日の記者会見。例によって、野田聖子氏や林幹雄幹事長代理が腰巾着として直ぐ後ろに二階氏を守るように控えていた。いつもの見苦しい光景である。
 記者団の相次ぐ質問に、後ろから林氏がとんでもない暴言を発した。
 「根掘り葉掘り、党の内部のことまで踏み込まないでもらいたい!」
 何という非常識極まりない、見識の欠落を晒け出した暴言か。党の内部のこと!?
 林幹雄。私より1歳年下だが、学年は同じである。二階氏の腰巾着としか言い様のないこの男は、政党助成金がどこから出ているのか、分かっているのだろうか。その前に、議会制民主主義とか公選とか、或いはそもそも政党とは何かということについて考えたことがあるのだろうか。もう一度ランドセル背負って基礎教育からやり直せ、と忠告しておきたい。
 千葉10区の有権者は、次の選挙で民主主義社会の主権者としての見識を示していただきたい。政治家とは、いつの時代も庶民、市民の鏡である。
 更に問題は、この暴言に記者団が素直に従ったことである。問題の核心についてそれ以上二階氏に何も聞かなかったのだ。
 日本にはメディアは存在するが、ジャーナリズムもジャーナリストも存在しない。このことをあからさまに示したシーンでもあった。

 三つ目のシーンは、民放テレビの何でもない、いつもの報道である。
 夜に入った街の路地裏。カメラがまるで盗撮するようなアングルで路地から店の中に焦点を当てている。レポーターの隠れ場所から秘密でレポートしているかのような、ヒソヒソ声に近いトーンのレポートが被る。
 「あっ! ビールです! 酒、酒を出しています!!」
 飲み屋と呼ばれる店が酒を出して、何が悪い? 自粛していないことを取り上げたいなら、正面玄関から堂々と入って、取材を申し込めばいいではないか!? 何を、コソコソ、ヒソヒソと、それも筋違いの正義をかざしてやっているのか。
 その泥棒猫のような取材姿勢が、ムラ社会の同調圧力を助長し、神楽坂のオッサンのような陰湿な犯罪者をボウフラのように発生させていることにまだ気づかないか?

 内閣総理大臣菅氏も東京都知事の小池氏も、確かにオリンピックに向けて気がふれたように暴走している。いや、迷走といった方がいいかも知れない。小池氏が疲れ切ってしまって入院するのも分かる。
 しかし、二人はよく知っているのだ。
 やってしまえば、国民はついてくる、支持するようになるということを。
 確かに、その通りである。
 オリンピック中止が80%だ、70%だと騒いでいたのに、オーストラリアのソフトボールチームが事前合宿のために来日した瞬間に、これが一気に10ポイント以上急降下するのだ。呆れ果てたことに、事前合宿を受け入れる自治体の市長などは態度を急変させた。そして、菅氏が有観客か無観客かというステップへ突き進むと、どのメディアの世論調査でも明確な「開催反対」は50%を切ってしまった。
 尾身提言も、橋本聖子委員長あたりにうまく揚げ足取りに使われる始末で、勝負は菅氏の勝ちなのだ。それを可能にした要因が、先の三つのシーンに端的に集約されているのである。
 このまま放置すればこの社会に未来などないことを、Z世代を核とした若者はしっかりと心に刻んでおいた方がいい。その結果はいずれあなた方に、ブーメランのように降りかかってくるのだ。

 福澤諭吉といえば「教育啓蒙家」などと教えられ、慶應義塾大学の創設者として、流石に令和の若者でも名前ぐらいは知っているだろう。日本近代化の先駆者のように語られる人物であるが、それは大筋では近いという程度であって彼の本質を理解しておかないと彼の啓蒙思想は真に理解できないと思われる。
 福澤には二度目の渡米の際、公金流用の事実があり、これは幕臣小野友五郎たちから告発されている。福澤は下級とはいえ武家であり、剣の腕は立った。しかし、武家特有の高度な倫理観は備わっていなかったとみえる。
 福澤による『明治十年丁丑公論』は、次の緒言から始められている。この著作には、福澤の本質がよく顕れており、これは福澤理解のためには必須の作であるといえるだろう。

 ―凡そ人として我が思う所を施行せんと欲せざる者なし。即ち専制の精神なり。故
  に専制は今の人類の性と云うも可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得
  ず。政府の専制は咎むべからざるなり。政府の専制咎むべからざると雖も、之を
  放頓すれば際限あることなし。又これを防がざるべからず。今これを防ぐの術は、
  唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、之に対する抵抗の
  精神を要す。その趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。――

 つまり、人が権力を手にすれば専制に陥るものであり、それは仕方がない、但し、それを放置すれば際限がないので、大切なことは抵抗すること、抵抗の精神をもつことである、というのである。
 この緒言を、安倍政権・菅政権のあり様を頭に置いて読んでみるとどうなるか。福澤のいう通り、ということになるだろう。
 ところが、明治維新以降令和に至る近代日本人は、「お上」には絶対逆らわないのである。時折、小さな反逆にみえる行動はあるのだが、最終的には「お上」が正義になる。この度のオリンピック開催か否か騒動も、結局「お上」である菅政権の意向通りに落ち着くのである。先に挙げた神楽坂のオッサンなどが「お上」を正義にしてしまう典型であり、現実にこれが日本社会のマジョリティなのだ。残念ながら、福澤のいう「抵抗の精神」など、大勢としては「あってはならない」のである。

 日本人が、日本人よりおとなしいと思っていたミャンマー人は、命を懸けて軍に抵抗した。その中心は若い女の子たちであった。
 今や「天使」と呼ばれている19歳の反軍デモのシンボリックな一人であった女性は、実は遺書を残していた。国軍の兵は、もはや半狂乱になって丸腰のデモ隊に実弾を乱射していた段階に、彼女は恐怖心を抱きながらも軍の無法に丸腰で抵抗を続けた、その結果が死であった。遺書を残していたことが示す通り、彼女は文字通り命を懸けて抵抗したのである。
 これに心を奪われた14歳の女の子がいた。彼女もデモ隊に加わり、国軍兵士から暴行を受け、「顔を覚えた、次は殺すぞ!」と脅された。そこで彼女は、やはり遺書を書き、それを首からぶら下げてデモ隊にまた加わった。
 案の定、14歳の彼女もまた予告通り、国軍兵士に実弾をぶち込まれて命を奪われた。

 思えば、香港の民主化要求デモのリーダーの一人も、日本語の達者な若い女の子であった。
 若年層だけではない。そもそもアウンサン・スーチーさんの存在があって、ミャンマーではようやく民主化のかすかな灯が点ったのである。トランプに立ち塞がったG7唯一のリーダーはドイツのメルケルさんであった。巨大な共産独裁国家中国にまだ屈していない台湾のリーダーは、蔡英文さんである。
 その他、新型コロナの蔓延を断固許さなかったニュージーランド、スウェーデンの重症者を受け入れたノルウェー、いずれもリーダーは女性である。メルケルさんは、いち早くイタリアの重症者を受け入れていた。
 これらの女性たちは、令和の「ニッポン男児」には微塵もみられない果敢な決断力を発揮した。

 翻って、今日の令和日本。
 私よりは少し若いとみえた高齢オバさんが、レポーターに「ワクチン接種が一通り済んだらマスクを外すか」と問われて、怒るように答えていた。
 「そんなもん、政府の方ではっきりいうてくれんと! そやないと、どうしていいんか、わからへんがな!」
 そのワクチンを接種するかどうか。23歳の男もレポーターに答えていた。
 「自分では決められない。親に相談して決めます」
 いい子だねぇ。。。 今夜もママのオッパイしゃぶって寝な!

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