季節外れの『ホワイト・クリスマス』

 アフガニスタンの首都カブールが陥落した。
 タリバンは当初から「無血入城」を企図しており、その通りに推移したということになるが、無血入城とはいっても現地は大混乱である。我が国のテレビメディアは、コロナ、オリパラ、しつこいほどの天気予報でほぼキャパがいっぱいの毎日であるが、この出来事は国際的には当然、かつてのサイゴン陥落と同列に扱われる重大な事態である。
 タリバンによる新政権が成立することになるが、それを承認するか否か、ロシア・中国も、EUですらまだ様子見のところがある。ところが、ドイツだけは単独で「承認できるわけがない」として、すべての支援を停止した。さすがにメルケル首相は、万事一貫しており、態度表明も素早く、明確である。早速、タリバンはドイツ人ジャーナリストの家族を殺害した。
 記者会見で満足な言葉も発することができず、後日ペーパーで補足しなければ事が済まないような我が国の総理大臣が、このような世界を震撼させている事態に我が国独自の見解を発信できるわけはない。今回はアメリカが当事者であり、すべてアメリカの指示待ちでは済まないところがあるのだ。現地の在留邦人、大使館職員の引き揚げはどうなっているのか。統治能力を失っている政権をいつまでも放っておくと、飲食店や医療従事者だけでなく、国民は等しく身に危険が及ぶと悟るべきであろう。

 「サイゴン陥落と同列に~」と述べたが、サイゴン陥落って何? という方は、グーグル先生に直ぐ聞いていただきたい。
 ベトナム戦争は、サイゴン陥落を以て終結した。アメリカが共産ゲリラ;ベトコンに敗北したのである。ハノイを空爆しても、ナパーム弾を使用しても、枯葉剤を空から散布してベトコンが隠れる林を消滅させてもベトコンを壊滅させることができなかった。ベトコンは、殺されても、殺されても、南ベトナムの首都サイゴンへの侵攻ゲリラ戦を展開し続けたのである。
 サイゴン陥落の日、サイゴンは炎に包まれた。その映像は世界に衝撃を与えたが、私は個人的な思いもあってこの映像を忘れることができない。

 当時、私は大学生であった。
 私の大学には、世界各国から留学生が集まっていた。一年間日本語教育を受け、各地の大学へ散っていくのである。この大学は、私たち日本人学生より海外からの留学生の方が学生数が多く、そこは文字通り「人種のるつぼ」であった。
 勉学のことはさておき、人種のるつぼでの4年間は私の「個人」として自立する原点であったという思いがある。明治維新は日本人に「西欧コンプレックス」という特性を植え付けたが、ここではそのようなことを言っていられなかった。反論すべきは反論しないと、我が身の存在が希薄になるのだ。意味不明の中途半端な笑みなどつくっていられないのである。
 読者諸兄(これは慣用句であり、ジェンダーフリー云々の対象にすべきではない)は信じないであろうが、或いは笑うだろうが、私は何度か「俺は侍(の子孫)だ!」と喚いたことがある。士族の家系であることを理解させると、彼らは態度を変えた。
 私は、「侍」とか「武士道」という言葉が嫌いであった。今でも好まない。これは、紛れもなく母の影響で、幼い頃から「武家」という言い方に馴染まされていた。武士道に当たる言い方は「武家の心得」であった。母が、武士道などという明治になってからの新造語を使ったことはない。

 そのことはさておき、留学生たち、特に欧米から来た連中は「侍」という言葉に敏感であり、「侍の血をひいている」となると「一目置いた」のである。私の大学生時代とは60年代の後半であり、我が国では「日本的なるもの」の価値がもっとも下落していた時代であった。明治維新直後と後の80年代と、この高度成長期・・・この三つの時代は、日本人がもっとも西欧人を尊崇した時代であり、この時代のその様も明治人と同様に実に卑しいものであった。
 尤も、80年代のそれは「欧米崇拝」というよりアメリカのみに憧れが集中し、世界とはアメリカのことといっても過言ではないほど、アメリカ一辺倒となってしまったことは周知の通りである。極端にいえば、バブル世代=80年代型日本人は、万事アメリカのことには詳しくても世界のことには無知である。
 そういう西欧に狂っていた時代。人種のるつぼの大学の汚い学食は、更に人種のるつぼと呼ぶに相応しかった。カレーライスが確か50円であったと記憶しているが、貧乏学生の私も彼らもこれを食べることが多かった。
 ある日、親しいニグロD(国籍アメリカ)と一緒に昼食をとっていたのだが、その日の午後、私はやはり友人であった白人アメリカ人から呼び出しを受けた。
 彼は、お前は今日、誰と昼食をとっていたかと、質問ではなく詰問するのである。Dと昼食をとるのは初めてのことではなかったが、その日彼は初めてそれを目撃したとみえる。まるで戦前の上海租界を思わせるような小汚い、雑然とした学食で誰がどこで何をしているかなど、いちいち構っていられない。誰か見知った友人がいたとしても、街の雑踏の中では気づかないのと同じである。
 その白人「アメ公」Jが詰問するには、私が一緒に昼食をとっていた男はニグロであるという。そんなことはお前にいわれなくとも分かっている。誰と昼飯を食おうとお前に文句をいわれる筋合いはない。しかし、Jはそういう私を非難し、怒るのである。お前はニグロと飯を食うのか、そういう人間なのか、という態度なのだ。
 学食でのこの種のエピソードだけでシリーズが成立するほどこの種の体験には事欠かないが、この時私は悟った。アメリカ合衆国における恥ずべき人種差別は、学校で習うような生易しいものではないということなのだ。逆に、もし私が白人Jと昼飯を食い、それをニグロの友人Dが目撃したとしたら、Dは二度と私と昼食をとらなくなったことだろう。JとD、つまり、白人とニグロは何があっても相容れないのだ。それは理屈ではなかったのだ。
 後日、私はJとスナックで乱闘に近い騒ぎを起こし、密かに惚れていた美しいママさんから出禁を食らってしまった。その時は人種問題が原因ではなく、広島・長崎への原爆投下とパールハーバーであった。友人ではあったが、二人の時は日本国を代表する私とアメリカ合衆国を代表するJとの間には衝突の種が尽きなかったのである。

 そんな友人の中に、南ベトナム政府から派遣されてきた若手官僚グエン・ノック・タッチがいた。私がもっとも親しくしていた友人であった。
 グエンは、小柄で細身、ひと目でベトナム人と判る外見をしており、茶目っ気があった。今でいえば「チャラい」感じといえなくもない。つまり、とても官僚には見えないヤツであった。
 何をしていたのか、正門に近い芝生にしょっちゅう様々な人種の知人と座り込んでいて、昼頃という遅い時間に正門をくぐる私を見つけると、満面に笑みを湛え、小指を立てて女性を抱きしめる格好をする。昨夜、女性と遊んでいたから遅くなったのだろう? とからかっているのだ。遅い時間に登校して芝生で遭遇すると、いつも似たような仕草をして知人たちと笑いながら私を迎えた。
 ある日、唐突に、15時ちょうどに自分の教室へ来てほしいという。急用ができたから呼びに来たという風情で来てほしいというのである。
 またくだらないことを企んでいるに違いないと思いつつ、私はグエンの依頼を実行した。約束の15時、引き戸になっている教室の後ろドアをガラッと引いて顔だけを教室の中へ突き出し、教壇の講師に向かって深刻な顔つきで南ベトナムのグエンさんは出席しているかと、やや切迫した口調で訊いたのである。
 その時のグエンの反応が面白かった。講師が私に反応する前に、一番前に席をとっていたグエンは反射的に立ち上がり、講師と私を交互に見ながらもう教室の後ろに向かって歩き始めている。えっ、僕? 何? 何かあった? といった表情で教室の後ろドアから顔を出している私の方に向かってくるのである。
 そして、素早く廊下へ出ると、私より先に教室を後にして遁走したのだ。
 正門近くでグエンに追いつくと、いつの間にか彼は小さなカバンを手にしていた。どこへ隠しておいたのか。筆記具は、教室に残したままのはずである。
 彼は、どこかへ行こうと、実に平凡なことを真顔でいった。街をぶらつきたいというのだ。そんなことでこのような猿芝居を打つ必要があるのか。
 グエンのすることは、滑稽さとバカバカしさに満ち溢れていたが、教室では常に一番前の席で授業を受けていたらしい。ホントは真面目なのか、それとも中学生のような幼稚さが抜けていなかっただけなのか、理解に苦しむ男であった。
 いつも底抜けに明るく振舞っているこの男が南ベトナム政府の若手官僚であったのだが、その母国南ベトナムは、北ベトナムとベトコンの攻勢に押され、ベトナム戦争はドロ沼化していたのである。

 そんなある日、グエンが唐突に帰国する旨を私に伝えた。茶目っ気たっぷりのいつものグエンではなく、その顔に笑顔はなかった。70年安保騒乱の年であったから、昭和43(1968)年の夏頃のことであったと思う。
 私は、直ぐ声が出なかった。昭和30(1955)年から延々と続く、このアメリカにとって抜き差しならなくなった戦争は、この頃既にアメリカの勝利が疑わしくなっていたのである。ということは、何を意味するか。
 「テト攻勢」とそれに対するアメリカ軍の反攻の後、主役はもはやベトコンではなく、中国・ソビエトの支援を受けた北ベトナム正規軍と米・韓国・豪などの連合軍との間の戦争となっていた。ラオス・カンボジアを侵略して南への侵攻ルートを確保している北ベトナム軍は、100万人という兵力に膨れ上がっていた。今、グエンが帰国すれば彼の命は極めて危うい。彼は、敗色濃厚な南ベトナム政府の官僚である。タリバンをみても分かる通り、真っ先に殺害される対象であった。
 お前! 正気か!? 殺されるぞ! と私は叫んで、彼の帰国に反対した。しかし、彼は寂しげに微笑むだけで、翻意することはなかった。
 お前、死にに帰るのか?
 私のこの言葉に、彼は正面から私の視線を受け留め、これまでに見たこともないなお一層寂しげな笑顔を私に見せたのである。

 昭和50(1975)年4月30日、サイゴン陥落。炎に包まれるサイゴンの映像が日本の茶の間にも届いた。
 前日から、サイゴン市内にはビング・クロスビーの『ホワイト・クリスマス』が流され続けた。在留アメリカ人に対する「脱出せよ」とのメッセージであった。
 平和な日本で燃えるサイゴンを見ながら、私はグエンがこの時死んだと、根拠もなく確信した。

 北ベトナムのサイゴン侵攻は、分かり切ったスケジュールであり、南ベトナム政府はアメリカに支援を要請したが、アメリカはこれを拒否した。自ら介入しておいて、敗北と共に南ベトナムを見捨てたのである。
 今回も、アメリカはカブールからの脱出に精一杯となりアフガニスタンを見捨てた。

 グエンは文官であって軍人ではない。だが、「武士道」だ、「葉隠」だと勇ましいことを口にする日本主義者とは違って、ベトナム人らしい優しい笑みだけを残して、滅亡に向かってカウントダウンの始まった祖国に命を懸けて帰国した。国家運営を担う一人の官僚として祖国にまだ為すべき仕事がある、チャラい男がそう考えて帰国の決意を固めたに違いない。
 4月の終わりにサイゴン市内に流れた、季節外れの『ホワイト・クリスマス』。私は、今でもソフトなビング・クロスビーの声を耳にすると、悲しくて仕方がない。
 グエン! お前はこれを聞いて脱出しなかったのか。燃えるサイゴンの炎が、これに答えていた。

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