冥土の旅の一里塚

 将棋の藤井聡太竜王が王将位も奪取し、五冠を達成した。将棋を知らぬ人もこのニュースは知っているだろう。何せ新聞が号外を出したほどであった。
 五冠を達成した棋士は、これまで大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、羽生善治九段の3人だけで、4人目の快挙だという。しかも、19歳6カ月での達成は史上最年少だということで、この快挙は将棋界を超えたビッグニュースとなった。
 因みに、これまでの最年少五冠は、羽生九段の22歳10カ月であったということだ。つまり、藤井「少年」は一気に約3年も五冠達成の年齢を若返らせたのである。
 19歳6カ月とか22歳10カ月という風に1カ月単位にまで細かくいうのは、やはりそれが「新記録」であるからだろう。近頃は若者の活躍が著しく、東京オリンピックでも「13歳!真夏の大冒険!」などという名フレーズが話題になった。
 これらの年齢は、いうまでもなく「満年齢」である。
 満年齢と聞いて、年齢に「満」って何? と不審顔になる人も多いのではないか。いや、殆どの読者がそうか? 既に時は令和となれば、そうかも知れない。
 ということは、今や「数え年」を知らぬ世代が増えたということか。確かに、身近にいるZ世代に聞いてみたが、
 「何? それ?」
という素っ気ない反応が殆どであった。この世代の「何? それ?」には慣れているが、Z世代だから知らないだけだろうなどといえば今どきえらいことになる。
 年齢には「満」と「数え」がある、などといっていたのはどの世代あたりまでであろうか。そして、両者のそもそもの違いを説明できるのはどのあたりまでか。
 そんなの難しい話ではない、満年齢に1つ足したのが「数え」だよ・・・う~ん、間違いとはいえないが、少し乱暴過ぎる。この場合、「何で1つ足すの?」と聞かれたら何と答えるのか。
 じゃあ、藤井新王将は「数え」だと20歳6カ月なの、と念押しされたらどうする? 「数え」では何カ月などという端数は付けないので、これは正解とはいえないではないか。

 我が国で年齢を今のように満年齢で表現するようになったのは、明治維新以降のことである。いうまでもなく、天皇絶対主義を唱えて幕府を倒しながら「何でも西欧」主義に豹変した薩摩・長州政権がそれまでの天保暦を廃し、グレゴリオ暦を採用したことが転機であった。つまり、明治5年(1872)以降のことである。
 簡略にいえば、数え年とは「生まれた時を1歳とし、それ以降新年の元旦になるたびに1歳ずつ増えていく」という年齢の数え方である。満年齢では、生まれた時はまだ0歳であり、最初の誕生日を迎えて初めて1歳となる。
 例えば、私は6月生まれであるが、数え年だとその時1歳であり、半年後、正月を迎えると2歳となる。満年齢ではまだ0歳であるが、数えでは2歳、単純に1を足すだけでは事は足りないのだ。
 更に半年経って6月の誕生日を迎えると、満年齢でやっと1歳、この時数え年は動かない。この時点で、「満1歳、数えで2歳」ということになるのだ。
 つまり、基準を誕生日とするか、正月元旦とするかの違いなのだ。
 ゼロとは何もないことを意味する数字であって、これを概念として生み出したのはインド人であるらしい。そのことはともかく、「満年齢」では人が生まれても最初の誕生日までは「0歳」である。生身の人間に対して「何も存在しない」0歳とはどういうことか。
 明治維新以前のことを何でも「古い」とする「近代日本人」に対して、生粋のヤマト人として一応異を唱えておきたい。

 古来、我が国では正月元旦というのは「年神様」を迎える一年でもっとも大事な日であった。年神様はこの日、私たちに「歳」を授けるために家々を訪ねてこられるのである。
 前日までに大掃除をして家を綺麗にし、年神様が間違わないように目印として門松を飾り、おもてなしをするためにおせち料理を作るのだ。
 年神様の来訪は、私たちに新しい一年を生き抜く力を与えてくれた。この、新たな一年を生き抜く力こそが「歳」=年齢なのである。
 こうやって、年齢というものは元旦に迎える年神様から授かるものという思想が受け継がれてきた。この「習俗」「民俗」ともいうべき考え方が一般庶民に至るまで広くいき渡ったのは江戸期のことである。
 因みに、お年玉とは「年神様」からいただくものである。「玉」という言葉には「魂」「霊力」という意味があり、やはりこの一年を乗り切るための年神様の温かい思いやりが込められているのだ。
 令和の子供たちよ、親が身の程を顧みず年神様になり代わって与えてくれるお年玉に対して、やれ安いの、少ないのなどと文句を垂れるものではない。あまり度が過ぎる要求は、神の怒りに触れ、「年相応」といわれるような真っ当な歳のとり方ができなくなるものと心得ることだ。

 江戸人は、気の利いた川柳に代表される「戯(ざ)れ詩(うた)」をたくさん残している。

    正月や
    冥途の旅の  一里塚
    めでたくもあり、めでたくもなし

 「数え年」という年齢の数え方、その由来を知っていてこそ、この詩の味のある面白さが理解できるというものだ。
 尤も、コロナワクチンを人様より早く接種できるようになってしまった我が身としては、今年の正月はこの戯れ詩がチクリと多少の痛みを以て心に浸み込んだものである。
 蛇足ながら、「一里塚」って何? という方々は、グーグル先生に聞いていただきたい。
 立春も過ぎて年神様の存在を忘れる頃になると、もう「魔の六月」の足音が聞こえる。

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